概要
【1】人間工学と産業人間工学の概要
【2】産業人間工学と人間工学評価ツール
【3】人間工学評価ツールの利用状況
【4】人間工学評価ツールの選択法
1.分岐チャート型のツール選択
2.表型のツール選択
3.ツール選択の注意点
【5】人間工学評価ツールの利用上の注意点
【6】参考書籍など
1.教科書・専門書
2.ISO・JISなど
【7】関連機関・関連サイトなど
【1】人間工学と産業人間工学の概要
人間工学は、人と技術との関係を人の快適性や健康およびパフォーマンスの観点から調整する学問です。大まかには以下の3分野に分類されます。
- 身体系人間工学 (Physical Ergonomics):人の身体の機能にかかわる人間工学。身体計測とサイズ設計、作業姿勢や動作と筋骨格系(運動器)障害、全身運動と疲労、生体リズムと睡眠・休憩・夜勤交代制勤務、物理環境(光・音・振動・温熱)と作業性や快適性の設計など。
- 認知系人間工学 (Cognitive Ergonomics):人の認知機能にかかわる人間工学。表示、警告、判断、安全、コンピュータインタフェース設計など
- 組織の人間工学 (Organizational Ergonomics):人と組織との関係における人間工学。安全工学、労働安全衛生など。
人間工学は、人が技術と触れ合うあらゆる場面で利用される知識・技術ですが、主要な適用場面として以下の3領域があります:
- 製品の人間工学:製品を人にとって使いやすく設計する。製品のサイズや可動部の操作性は身体系の人間工学、表示やソフトの操作性は認知系の人間工学に該当する。
- ソフトウエアの人間工学:ソフトウエアや情報機器装置の画面や入力あるいは表示等を、人にとって使いやすく設計する。認知系の人間工学の領域。
- 職場の人間工学(産業人間工学, Occupational Ergonomics):心身ともに健康で安全に働けるように作業や職場環境を設計・再設計する。荷物の取扱いは身体系人間工学、検査や監視あるいは安全対策は認知系人間工学、職場全体の安全や健康の管理は組織系の人間工学に該当する。
製品やソフトウエアの人間工学は、「使いやすい商品」や「快適な操作性」といった文脈で使われ、一般にもよく知られています。これに対して職場の人間工学(産業人間工学)は、職場の快適性や生産性の向上あるいは健康障害の予防に広く利用されています。なじみはないかもしれませんが、実はより多くの人が日常的に関係している課題を対象とする人間工学です。
【2】産業人間工学と人間工学評価ツール
産業人間工学の領域では、作業姿勢や動作における身体負担を評価するツールが多く利用されています。これは、多くの職場で腰痛や肩こりなどの筋骨格系障害の発生があり、その対策として仕事を人間工学的に評価・設計するツールが必要なためです。職場の筋骨格系障害の発生に関係する主な要因は以下の通りです:
- 重量物の取扱いや高い力発揮
- 作業姿勢
- 作業回数(頻度)
- 作業時間と休憩時間
- 全身振動や車両運転
- 作業環境(照明、温熱、騒音など) など
作業の設計・再設計では、これらの多数の要因による身体負担を同時に考慮しなければなりません。この目的のために多くの基礎研究と現場への適用経験に基づいて開発されたのが、作業姿勢や動作のための人間工学評価ツールです。
人間工学評価ツールには、適用場面や評価する作業条件に応じて多くの種類があります。概要は以下のリビュー論文を参照ください。ツールが実務で使用されて評価を受けるのには時間がかるので、各年代でのリビュー論文を示します。
[1] David, G.C., Ergonomic methods for assessing exposure to risk factors for work-related musculoskeletal disorders, Occupational Medicine, 2005, 55 (3), 190–199, https://doi.org/10.1093/occmed/kqi082, 直接観察による方法が15種類
[2] Takala E-P, Pehkonen I, Forsman M, Hansson G-Å, Mathiassen SE, Neumann WP, Sjøgaard G, Veiersted KB, Westgaard RH, Winkel J, Systematic evaluation of observational methods assessing biomechanical exposures at work, Scandinavian Journal of Work, Environment & Health, 2010, 36(1), 3-24, doi:10.5271/sjweh.2876, チェックリストも含めて32種類
[3] Mangesh Joshi, Vishwas Deshpande, A systematic review of comparative studies on ergonomic assessment techniques, International Journal of Industrial Ergonomics, 2019, Vol. 74, 102865, doi.org/10.1016/j.ergon.2019.102865, 18種類
各種ツールの全体像および現状については、以下の記事も参照にしてください。ツール間の関係図などが記載されています。
[4] 瀬尾明彦, 肥田拓哉, 菅間敦, 平内和樹, 茅原崇徳, 倉元昭季, 人間工学評価ツールの現状について, 人間工学, Vol. 58, No. 3, pp. 123-126, 2022. DOI https://doi.org/10.5100/jje.58.123
【3】人間工学評価ツールの利用状況
最近のツールの利用状況については、以下のLoweらの論文[5]が参考になります。米国・カナダ・英国・オーストラリアの人間工学専門家は以下のツールをよく利用しています。太字は本サイトでカバーしているものです。なお、ACGIH Lifting/HALなどの利用者は米国・カナダ、HSEのMAC/RAPP/ARTなどの利用者は英国・オーストラリアにほぼ限られています。
- NIOSH Lifting Equation (NLE):荷物の持ち上げ下ろし評価
- RULA (Rapid Upper Limb Assessment):上肢姿勢評価
- Snook & Ciriello Tablesなど:荷物の持ち上げ下ろし・運搬・押し引き評価
- REBA (Rapid Entire Body Assessment):全身姿勢評価
- 生体力学モデルやデジタルヒューマンモデル(DHM)
- Body Discomfort Map:部位別の主観的不快感のマップ
- SI (Strain Index):上肢反復作業評価
- ACGIH TLV for Lifting:荷物の上げ下ろし評価
- ACGIH TLV for Hand Activity Level (HAL):手腕反復作業の評価
- WISHA Lifting calculator:荷物持ち上げの評価
- エネルギー消費量推定
- Rodgers Muscle Fatigue Analysis (MFA):全身の筋疲労分析
- ACGIH TLV for upper limb muscle fatigue:上肢筋疲労評価
- OWAS (Ovako Working Posture Analysis System):全身姿勢評価
- HSE MAC:荷物の持ち上げ下ろし・運搬・チーム運搬の評価
(以下、省略)
[5] Brian D. Lowe, Patrick G. Dempsey, Evan M. Jones, “Ergonomics assessment methods used by ergonomics professionals”, Applied Ergonomics, Vol.81, November, 2019, https://doi.org/10.1016/j.apergo.2019.102882
【4】人間工学評価ツールの選択法
ツールの選択法には、分岐チャート型のものや表型のものなどがあります。
以下にそれぞれ示します。
1.分岐チャート型のツール選択
ここでは、AIHA(米国産業衛生協会)の資料[1]を参考に作成した分岐チャート型のものを以下に示します。文献[6]には、ツールの選択の基本的な考え方や各ツールの概要についての解説も記載されています。
[6] AIHA Ergonomic Committee, “Ergonomic Assessment Toolkit”, https://aiha-assets.sfo2.digitaloceanspaces.com/AIHA/resources/ERGOVG-Toolkit_rev2011.pdf
以下、チャートに従ったツール選択の進め方を説明します。
まず、評価をしようとする作業をタスクに分解してみます。
タスクが手で荷物を取り扱う作業(MMH:マニュアル・マテリアル・ハンドリング)なら、下図左側に進みます。MMHは、荷物の持ち上げ下ろし(lifting/lowering)、運搬(carrying)、台車等の押し引き(pushing/pulling)の3種類に分けられています。それぞれに対応したツールを選択します。
タスクがMMHでない場合は、下図右段に進みます。MMHでないタスクに含まれるのは、荷物を扱わないタスクや3kgに満たない軽量の荷物しか扱わないタスク、前屈・中腰・上肢挙上などその姿勢を持続するのに負担感や困難を感じる作業姿勢(不自然な姿勢あるいは不良姿勢awkward postureと呼ばれる)のタスク、短時間に何度も同じ動作を繰り返す高反復作業のタスク(軽量の部品のピッキングや取り付けなど)などです。これらの場合は、下図右側に進み、まず人間工学チェックリストを行います。これにより、分析すべき人間工学の課題の全体像を理解したら、下図右下段にある不自然な姿勢あるいは反復・高負荷作業のいずれかのブロックに含まれるツールを選択します。
図右上段の「人間工学チェックリスト」に含まれる手法は、人間工学の知識のない現場の業務・実務担当者から人間工学の専門家まで広く利用されています。しかし、チェックリストのみだと定性的な課題の指摘にとどまるので、製品設計や生産システム改善にまで踏み込んだ対応には限界があります。
図中段の5つのブロックに分かれたツールは、実務でニーズの高い場面に特化した評価法です。チェックリストよりも手続きがやや複雑でいくらか専門的知識は必要ですが、ある程度定量的に評価できます。そのため、改善の優先度の把握や効果予想への利用に適しています。
図下段には、「生体力学モデル・デジタルヒューマン」のブロックがあります。これは、中段の各種のツールに含まれない新たな課題を検討したり、新しい評価法を作り出したりするのに利用できます。ただし、人間工学だけでなくエンジニアや研究者としての知識技術も必要になります。
上図の分類と本サイトの分類の対応関係は以下の通りです。
- 荷物取扱い:MMHの持ち上げ・運搬・押し引きの各作業
- 全身作業姿勢:「不自然な姿勢」の全身姿勢+「反復・高負荷作業」の全身動作・疲労+生体力学モデル
- 上肢作業姿勢:「不自然な姿勢」の上肢姿勢+生体力学モデル
- 上肢反復作業:「反復・高負荷作業」の上肢動作
本サイトの分類では、まず、MMHを1の「荷物取扱い」に分類します。MMHでないタスクは、主に手や腕を繰り返し反復して使用するものを4の「上肢反復作業」とします。それ以外のタスクのうち、前屈や中腰など主に全身の不自然な姿勢を伴うものは2の「全身作業姿勢」、腕を上げたり手や手首を不自然に曲げたりした上肢の姿勢を伴うものは3の「上肢作業姿勢」に分類します。4群のツールの関係を下図に示します。
2.表型のツール選択
本サイトの分類を基本に、未対応の手法も含めて表型にまとめたものを以下に示します。
3.ツール選択の注意点
- 評価すべき作業や評価のポイントが明確なら、それに合ったツールを1つ選択して利用ください。
- 実際の人の作業は複合的なので、必要に応じて複数のツールを併用するのは当然です。たとえばMMHで、持ち上げの始点の位置が低くてその作業姿勢の改善に注目したいなら、全身姿勢評価法を併用ください。上肢反復作業で作業点が低くて中腰姿勢になっているなら全身姿勢評価、作業点が高くて上肢挙上姿勢になっているなら上肢姿勢評価を併用ください。
- あらゆる作業姿勢や動作を評価できる単一のツールはないのか、とのご意見もあるでしょう。上表の総合評価法にあるQECやEAWSは、まさにそれを目的に作られたツールです。ただ、これ1つでうまくいくかというと、なかなか難しいです。
- QEC (Quick Exposure Check) [7]は、現場の作業者と安全衛生管理者が一緒に利用できるように項目を絞り込りこみ、かつ数値的な記録ではなく文章で説明された選択肢を選ぶ形式を採用しています。3ページのチェックシートのうち作業内容を記録するのは2ページ分だけで、確かに量も少なく記入しやすいように工夫が凝らされています。ただし、項目が少ない分だけ1つ1つの項目の厳密な理解は必要でしょう。現場の客観データと作業者の主観データの両方が必要な点も、両者の意見が反映できて改善活動に効果的な反面、両者がそろわないと利用できません。改善への展開には別法の併用が必要そうです。
- EAWS (Ergonomic Assessment Worksheet) [8][9]は、ISO 11226やISO 11228-1~3に含まれる内容をできるだけ保ってかつ一貫性を持たせるように統合されたツールです。ワークシートは4ページでこちらもコンパクトです(シートの利用はフリーで[8]のサイトからダウンロード可)。ただし非常に多くの記録項目が埋め込まれており、記録も評価もそれ専門の知識・技術が必要になっています。本法はMTMベースのシステムで、利用想定もIE関係者のようです。
[7] Geoffrey Davida, Valerie Woods, Guangyan Li, Peter Buckle, The development of the Quick Exposure Check (QEC) for assessing exposure to risk factors for work-related musculoskeletal disorders, Applied Ergonomics 39 (2008) 57–69, doi:10.1016/j.apergo.2007.03.002
[8] Fondazione Ergo-MTM Italia, EAWS – ERGONOMIC ASSESSMENT WORKSHEET, https://www.eaws.it/
[9] ISO, ISO/TR 23076:2021, Ergonomics — Recovery model for cyclical industrial work, 人間工学-周期的な産業作業の回復モデル, 2021-10-14
【5】人間工学評価ツールの利用上の注意点
人間工学評価ツールを効果的に利用するには、通常の安全や衛生のリスクマネジメントの手続きに含めて活用するようにしましょう。
リスクありと判定された場合、通常のハザードコントロールと同様、ハザードを除去あるいは低減する工学的な対策をできるだけ優先しましょう。ハザードをそのままにして暴露量を低減する対策(多くの管理的な対策や個人保護具による対策が該当)のみでは、なかなか効果があがりません。
たとえば、作業中の前屈や中腰といった特定の不自然な姿勢での作業がリスクありと判定された場合、その姿勢をとらないようにとの指導や教育(管理的対策)だけでは効果が持続しないことはよく知られています。根本的にその姿勢を取らなくて済むよう、設備や作業方法の改善(工学的改善)をできるだけ推進しましょう(下図は文献[10]を参考に作成。ただし個人保護具の効果は不明で、参考までに管理的改善と同等した)。
設備や作業方法の改善には、組織的な関与と予算の確保が必要です。そのためにはトップのコミットメントも必須です。
作業姿勢や動作による健康障害の多くは、下図のように高い負荷がかかった時に発生します。そのため、高い負荷のかかる作業シーンを優先的に改善するのが効果的だとされています。多くの評価ツールが、作業全体の負担度を評価するよりも、負荷が高いと思われる作業シーンや健康障害の発生が疑われる特定のシーンを優先して改善するのを推奨しているのはこのためです。すべての作業シーンの人間工学リスクを把握しようとして消耗することはありません。
残念ながら、現状のツールを利用しても健康障害の発生がすべて防止できるわけではありません。作業にも個人にも無数のリスク要因があり、かつそれは確率的に変化することも多いためです。それでも、ツールによりいくつかのリスク要因を数値化して比較したり順序付けしたりすることができると、改善の優先度や効果を客観的に認識しやすくなります。各自の利用場面に応じて、うまく活用してください。
より詳しい人間工学プロセスのマネジメントについては、書籍[11]-[13]を参照ください。
[10] Richard W. Goggins, Peregrin Spielholz, Greg L. Nothstein, Estimating the effectiveness of ergonomics interventions through case studies: Implications for predictive cost-benefit analysis, Journal of Safety Research 39 (2008) 339–344
[11] James P. Kohn, “Ergonomics Process Management: A Blueprint for Quality and Compliance”, CRC Press, 1998, 336ページ
[12] Marras, B. & Karwowski, W. (eds.). (2006). The Occupational Ergonomics Handbook (2nd Ed.). Volume 1: Fundamentals and Assessment Tools for Occupational Ergonomics; Volume 2: Interventions, Controls, and Applications in Occupational Ergonomics. (2nd Ed.). CRC Press, 合計1872ページ。
[13] Salvendy, G., Karwowski, W., Handbook of human factors and ergonomics, 5th ed, Wiley, 2021, 1600ページ
(補足説明)人間工学における作業の許容限界の設定について
作業や動作を人間工学的に評価するツールは、作業により運動器障害が発生しないような設計を支援する。そこでは何らかの作業の許容限界値が計算され、それが現実の作業での負荷が超えているとリスクがあるので要改善と判断される。この場合の「限界値」には以下のように、いくつもの種類がある。
1) 個人レベルの作業能力の限界値:(1)を最大値として、あとは個人の負担感と快適性の観点でレベルを決める。最大値を超えるレベルの作業能力を求められると運動器障害が発生するリスクが極めて高くなる。最大値を超えなくても、負荷が高いほど障害の発生リスクは高くなる。
(1) 身体的な運動能力の限界レベル(人として発揮できる限界):最大値
(2) 仕事として繰り返し可能なレベル:最大値のおおむね50%以下
(3) 快適に作業できるレベル:最大値の30%以下のレベル
(4) 日常生活に近いレベル:最体力の20-30%のレベル
(5) 作業負担をほぼ感じないレベル:最大値の10%を超えないレベル
2) 集団レベルの限界値:特殊な作業だと(1)にすることもあるが、多くは仕事として日常的に行う場合作業なので(3)のレベルにする必要あり。(2)は一見よさそうに見えるが、これだと半数の作業者しか実施できないことになるので不十分である。職場ではだれでもいつでも受持できる(3)のレベルが理想である。
(1) ごく一部の人だけが実施可能なレベル:5パーセンタイル
(2) 平均的な人が実施可能なレベル:50パーセンタイル
(3) 作業集団のほとんどの人が実施可能なレベル:70~95パーセンタイル
(4) すべての人が実施可能なレベル:95~99パーセンタイル
3) 理論的な限界値:(1)と(2)は理論的な限界値であり、絶対に厳守すべき限界値である。ただし実験室での実測実験に基づくデータなら、(3)の心理的な要因も必然的に含まれている。(4)は実作業にもとづく限界である。シンプルな作業なら(1)と(2)で理論的にも推定できるが、複雑な要因が絡む作業の限界値でははやはり現場の実測に基づく限界値は無視できない。
(1) 生体力学的な限界値:筋肉や骨格など身体の構成要素の限界値を満たす
(2) 生理学的な限界値:エネルギー消費量的に継続可能である
(3) 心理物理量での限界値:心理的に継続可能である
(4) 疫学的な限界値:実際の職場の作業と健康とのデータの関係から求めた作業限界(働いていて健康障害が発生しない閾値)
一般に限界値というと、上記1)の(1)および3)の(1)~(3)を満たす生物学的な身体能力の限界値を想像する人が多いだろう。つまりスポーツテストなどで行われる体力検査の限界値に相当する値である。しかし作業現場の人間工学的な限界値では、1)の(2)の繰り返して作業できるという反復可能性と、2)の(3)の作業者の多くが実施できるという集団適用性の2点を必ず満たさなければ使い物にならない。
(A) 反復で行えること
上記1)の(2)の身体能力の限界値は、1日のうちに1回だけ発揮できればよい。もし対象作業が1日に1回だけ実施すればよいなら、身体能力の限界値を作業設計に活用できるかもしれない。しかしほとんどの作業は、繰り返しが前提なのでこれでは良くない。経験的に、毎日の作業の繰り返しにある程度耐えられる限界値は、身体能力の最大値のおおむね50%までとされている。スポーツでは70%以上の筋力を普通に発揮するが、このレベルだと微細な筋障害が発生するのでその回復のための休日が必須となる。毎日行う作業では、そのような休日を入れることはできないので、50%を超えるような発揮力は出さないようにする。
(B) 集団に適用できること
人の体力には個人差がある。たとえば従業員100人の背筋力の平均値が140kgだったとして、作業での持ち上げ力を140kgを前提に設計すると仮定する。そうするとその作業ができるのは、作業者のうちの半数だけである(簡単のため、以下、筋力は正規分布すると仮定する)。しかし半数の作業者しかできないのでは作業として成り立たないので、もっと低めの値にしなければならない。この「低めの値」を合理的に決めるのには、統計学的にデータのばらつきを考慮する。
筋力のデータのばらつきは、一般に変動係数CVで0.3程度(平均値の0.3倍がばらつきを示す標準偏差であるという意味)とされる [*1]。つまり、背筋力の平均値が140kgとすると、140×0.3=42 kgが標準偏差である。この場合、背筋力が正規分布するなら、分布の中央付近([平均値-標準偏差]~[平均値+標準偏差])、つまり98~182kgの間に68%の人が含まれると推定できる。言い換えると、荷物の質量をこの区間の下限の[平均値-標準偏差]=140-42=98 kgにすると、作業者の84% (=100-(100-68)/2)の人は持ち上げ可能、残り16% (=(100-69)/2)の人は持ち上げ不可となる。最大筋力に対して作業時の力は、これくらい大きく下げないと多くの人には実施してもらえない。
男女で一緒に作業する場合だと、さらに力を下げる必要がある。女性の筋力は、通常男性の60%なので、平均値は140×0.6=84kg、標準偏差は84×0.3=25.2kgと推定される。そのため、[平均値-標準偏差]は84-25.2=58.8kgとなる。58.8kg以下にしないと女性の84%の人が持ち上げ可とならない。
上記は男女それぞれ84%までに対応したものだが、対象を広げて95%までとしたいなら、[平均値-標準偏差]のところを[平均値-1.645×標準偏差]とする。そうすると、男性では140-1.645×(140×0.3)=70.9 kg、女性では84kg-1.645×(84×0.3)=42.5 kgになる。男性の平均の背筋力140kgからみると、女性の設計値はそのほぼ30%になる。
(C) 反復可能でかつ対象集団の多くの人に受容可能であること
この場合、最大発揮力の50%以下の作業が実施できる人が大多数になるように設計すればよいので、以下の通り、(B)の式に50%をかければよい:
最大発揮力が50%でかつ作業者の84%を満たす場合:
男性=[平均値-標準偏差]×0.5=(140-140×0.3)×0.5=98×0.5=49 kg
女性=[平均値-標準偏差]×0.5=(140×0.6-140×0.6×0.3)×0.5=58.8×0.5=29.4 kg
最大発揮力が50%でかつ作業者の95%を満たす場合:
男性=[平均値-1.645×標準偏差]×0.5=(140-1.645×140×0.3)×0.5=70.9×0.5=35.5 kg
女性=[平均値-1.645×標準偏差]×0.5=(140×0.6-1.645×140×0.6×0.3)×0.5 =42.5×0.5=21.3 kg
以上は非常にラフな推定であるが、それでも、反復可能でかつ対象集団の多くに受け入れ可能にしようとすると、作業での発揮力は元の最大発揮力の平均値のほぼ25%まで下げなければならないことがわかる。
実際、荷物持ち上げの限界値が、NIOSHの持ち上げ式で男女合わせた集団ではLCが23 kg, ISO 11228-1の持ち上げではmrefが25 kgとなっていた。背筋力データなどからすると非常に低い値のように見えるが、上記の手続きからみると納得できる値であることがわかる。
また、作業者にとってより快適性を追求するなら、上記の(A)および(C)の50%を20%や30%にすることでさらに低い値にする。逆に対象集団を男性のみあるいは女性のみと限定したり、受容できる集団の割合を減らしてもよいなら、もう少し高いあるいは低い限界値を設定することもあり得る。ただし限定的な設定は、知らない間に対象集団が変わっていたり設定の意味を誰も知らない事態になったりしやすく、後でトラブルになりやすいのでお勧めしない。
ISO/TR 112295 [*2]には、ISO 11226, 11228-1~3といったMMHのISOを総括してあるが、その中で、受容可能な条件 (Acceptable condition)と重大なリスクのある条件 (Critical condition) がBorg CR10スケール(以下、BS)でまとめてある。それによると、受容可能なレベルはBSで2~3以下、重大なリスクのあるレベルはBSが8以上とある。
力発揮以外の他の限界値も、作業での限界値については同様な考えに基づいて設計される。既存の手法については、手法により微妙に限界値の考え方が違う点には注意すること。
[*1] The Eastman Kodak Company, Kodak’s Ergonomic Design for People at Work, 2nd ed., Wiley, 2003.9, ISBN-13: 978-0471418634, p.165.
[*2] ISO, ISO/TR 12295:2014, Ergonomics – Application document for International Standards on manual handling (ISO 11228-1, ISO 11228-2 and ISO 11228-3) and evaluation of static working postures (ISO 11226), 人間工学-手動取扱い(ISO 11228-1, ISO 11228-2及びISO 11228-3) のための適用文書及び静的作業姿勢の評価(ISO 11226) に関する国際規格, 2014-03-20
【6】参考書籍など
1.教科書・専門書
日本の人間工学の教科書は、身体計測を除けば身体系の人間工学についての記述が少なく、人間工学評価ツールについての記載はほぼありません。
洋書の人間工学の教科書では、2000年以降の情報分野の発展を受けて認知系の記述が増えて身体系の記述は減りましたが、評価ツールの基礎となる生体力学 (Biomechanics)や適用場面の多いMMHの評価ツールの記載はそのままです [14]。
[14] Lee, J., Wickens C., Liu, Y., Boyle, L. (2017), Designing for People: An Introduction to Human Factors Engineering. CreateSpace.p.692:国際人間工学会IEAが定める人間工学専門家のコアコンピテンシー[15]の推薦図書にも挙げられている人間工学の教科書の1つ。記載ツール:生体力学モデル, NLE
[15] IEA (International Ergonomics Association), “Core Competencies in Human Factors and Ergonomics (HFE) – Professional knowledge and skills -”, 2021, https://iea.cc/leadership/education-certification/iea-recognized-and-endorsed-certification-systems-for-professional-ergonomists/
産業人間工学の教科書では、多くの評価ツールが紹介されています [16][17]。
[16] Bridger, R.S. Introduction to human factors and ergonomics, 4th ed, CRC Press, 2018,p.770:タイトルは「人間工学入門」だが、実質的に「産業人間工学」の内容。記載ツール:Snook & Ciriello tables, NLE, 生体力学モデル, ISO 11226, REBA, SI, QEC
[17] Stack, T., Ostrome L.T., Wilhelmsen C.A., Occupational Ergonomics: A practical approach, 2nd ed, Wiley, 2023, p.560。記載ツール:Snook & Ciriello tables, NLE, 生体力学モデル, RULA, REBA, ACGIH Lifting/HAL
産業人間工学の日本語の教科書としては、訳本ですが以下のものがあります。
[18] Konz・Johnson著, 宇土・瀬尾監訳,日本産業衛生学会作業関連性運動器障害研究会編, ワークデザイン, 労働科学研究所, 2013, 311p: Konzらの”Work Design”の第7版の訳本。記載ツール:NLE, 生体力学モデル, WISHA lifting calculator, RULA, LUBA, Rogers MFA
産業人間工学に関して重厚に記載されている専門書としては、以下の2件(再掲)がおすすめです。[19]は2分冊。
[19] Marras, B. & Karwowski, W. (eds.). (2006). The Occupational Ergonomics Handbook (2nd Ed.). Volume 1: Fundamentals and Assessment Tools for Occupational Ergonomics; Volume 2: Interventions, Controls, and Applications in Occupational Ergonomics. (2nd Ed.). CRC Press, 合計1872ページ。
[20] Salvendy, G., Karwowski, W., Handbook of human factors and ergonomics, 5th ed, Wiley, 2021, 1600ページ
2.ISO・JISなど
人間工学に関係するISOやJISは、日本規格協会のJISハンドブックの「人間工学」、「労働安全・衛生」、「高齢者・障害者等」を見ていただくとわかるように多数あります。ここでは、作業における人の姿勢や動作にかかわるISO・JISに限って一覧を上げておきます。
1) ISOの安全のおおもとの規格
ISO/IEC Guide 51:2014 (JIS Z8051:2015), Safety aspects-Guidelines for their inclusion in standards, 安全側面-規格への導入指針
・安全の確保のため、製品またはシステムの使用中におけるあらゆるリスクを減らすことを規定している。
・この規格の「6 許容可能なリスクの達成」の「6.1 リスクアセスメント及びリスク低減の反復プロセス」で、リスクアセスメントをすることが示されている。その内容は、ISO 12100:2010(JIS B9700:2013)に記載されている。
2) 機械類のリスクアセスメントのおおもとの規格
ISO 12100:2010(JIS B9700:2013), Safety of machinery – general principles for design – Risk assessment and risk reduction, 機械類の安全性―設計のための一般原則― リスクアセスメント及びリスク低減
・この規格の「6. リスク低減」の「6.2 本質安全設計方策」に「6.2.8 人間工学原則の遵守」があり、リスクアセスメントの実施とリスク低減に人間工学原則を守ることとある。その内容は、ISO/TR 22100-3:2016に記載されている。
3) 安全実現のための人間工学の導入の原則が記載されている技術報告( TR, Technical Report)
ISO/TR 22100-3:2016, Safety of machinery – Relationship with ISO 12100 – Part 3: Implementation of ergonomic principles in safety standards, 機械類の安全性-ISO 12100との関連-第3部:安全性規格への人間工学的原則の導入:対訳版あり
・人間工学を考慮しないと、不快感・疲労・筋骨格系障害・ストレス・ヒューマンエラーなどを起こすハザードに曝露されて問題が起こるので、それぞれ適切に管理しようと記載されている。
4) ISO/TR 22100-3:2016には、様々な人間工学的なリスクに対応するために用意されたISOの一覧が記載されている。そのうち、人の姿勢と動作にかかわるものとして、以下のものがあげられている(身体サイズや作業スペースの関係ISOは略, 年度は一部更新)。
・ISO 11226:2000, Ergonomics – Evaluation of static working posutres:全身勢や上肢の保持姿勢の評価に対応
・ISO 11228-1:2021, Ergonomics – Manual handling – Part 1: Lifting, lowering and carying:MMHの持ち上げと運搬に対応
・ISO 11228-2:2007, Ergonomics – Manual handling – Part 2: Pushing and pulling:MMHの押し引きに対応
・ISO 11228-3:2007, Ergonomics – Manual handling – Part 3: Handling of low loads at high frequency:上肢反復作業評価に対応
5) BS EN規格では、以下のものが上記4点に対応(ただし個々が同一の内容の対応ではない)
・BS EN 1005-1:2001+A1:2008, Safety of machinery. Human physical performance. Terms and definitions, 機械類の安全性-人間の身体的機能-第1部:用語及び定義), 2002-03-20, 対訳あり
・BS EN 1005-2:2003+A1:2008, Safety of machinery. Human physical performance. Manual handling of machinery and component parts of machinery, 機械類の安全性-人間の身体的機能-第2部:機械及び機械構成部品の手作業による取扱い, 2003-06-19, 対訳あり:MMHの持ち上げと運搬に対応(ただし、運搬の記述はあまりない)
・BS EN 1005-3:2002+A1:2008, Safety of machinery. Human physical performance. Recommended force limits for machinery operation, 機械の安全性-人間の身体的機能-第3部:機械操作における推奨する力の限度値, 2002-02-26, 対訳あり:機械操作の様々な方向への押し引き作業に対応(ISO 11228の1~3には対応しない)
・BS EN 1005-4:2005+A1:2008, Safety of machinery. Human physical performance. Evaluation of working postures and movements in relation to machinery, 機械の安全性-人間の身体的能力機械に関する作業姿勢と動作の評価, 2005-06-27:保持姿勢に対応(ISO 11226:2000を更新した内容)
・BS EN 1005-5:2007, Safety of machinery. Human physical performance. Risk assessment for repetitive handling at high frequency, 機械の安全性-人間の身体的能力. 高頻度での繰り返し取り扱いに対するリスクアセスメント, 2007-03-30:上肢反復作業評価に対応(ISO 11228-3:2007にほぼ対応した内容)
6) 上記のISO 11226, ISO 11228-1~3については、それをまとめた使い方の説明資料として以下のTRがある。現状、ISO 11226, ISO 11228-1~3にこのISO/TR 12295を含めた5点が、実質、姿勢・動作系を代表する主要文書になっている。
ISO/TR 12295:2014, Ergonomics – Application document for International Standards on manual handling (ISO 11228-1, ISO 11228-2 and ISO 11228-3) and evaluation of static working postures (ISO 11226), 人間工学-手動取扱い(ISO 11228-1, ISO 11228-2及びISO 11228-3) のための適用文書及び静的作業姿勢の評価(ISO 11226) に関する国際規格, 2014-03-20
7) 人を対象とする作業はISO 11228が対応しておらず、以下のTRがある。
ISO/TR 12296:2012, Ergonomics – Manual handling of people in the healthcare sector, 人間工学-ヘルスケア分野における人力での人の取扱い, 2012-06-01
8) 包括的な作業負担軽減を行う方法が記載されている(日本のISO TC159/SC3から提案された技術仕様書TS)。チェックリストやDiscomfort Mapあり。
ISO/TS 20646:2014, Ergonomic procedures for the improvement of local muscular workloads, 筋骨格系作業負担の最適化のための人間工学ガイドライン, 2014-01-06, 対訳版あり
9) 総合評価法のEAWSに基づく技術報告
ISO/TR 23076:2021, Ergonomics — Recovery model for cyclical industrial work, 人間工学-周期的な産業作業の回復モデル, 2021-10-14
10) 農業部門への適用の技術報告(内容未確認)
ISO/TR 23476:2021, Ergonomics — Application of ISO 11226, the ISO 11228 series and ISO/TR 12295 in the agricultural sector, 人間工学-農業部門におけるISO11226, ISO 11228シリーズ,およびISO/TR12295の適用, 2021-06-16
11) 建築部門への適用の技術報告(内容未確認)
ISO/TR 7015:2023, Ergonomics — The application of ISO/TR 12295, ISO 11226, the ISO 11228 series and ISO/TR 23476 in the construction sector (civil construction), 人間工学-建設部門 (土木建設) における ISO/TR 12295, ISO 11226, ISO 11228シリーズおよび ISO/TR 23476 の適用, 2023-04-27
【7】関連機関・関連サイトなど
- 日本人間工学会
- 日本機械学会
- 日本経営工学会
- 日本産業衛生学会
- 日本産業衛生学会 作業関連性運動器障害研究会
- 独立行政法人労働者健康安全機構 労働安全衛生総合研究所
- 公益財団法人 大原記念労働科学研究所
- 国立研究開発法人 産業技術総合研究所 (AIST)
- 一般社団法人 人間生活工学研究センター (HQL)
- 独立行政法人 製品評価技術基盤機構 (NITE)
- 日本規格協会
- IEA (国際人間工学会, International Ergonomics Association)
- 米国 NIOSH (労働安全衛生研究所, National Institute for Occupational Safety and Health)
- 米国 ACGIH (アメリカ産業衛生専門家会議, American Conference of Governmental Industrial Hygienists)
- 英国 HSE (安全衛生庁, Health and Safety Executive)
- ISO (国際標準化機構, International Organization for Standardization)